無傳塾の歴史

会津で生れ北海道で育った大東流合氣柔術(合気道の源流

大東流合気柔術は今から900有余年前の清和天皇の末孫である新羅三郎源義光を始祖として大東の館で修練されたことにちなみ大東流と称され、代々甲斐源氏武田家に伝承された秘術であることは周知の通りであります。

天正元年(1573年)4月12日武田信玄の死後、同2年弥生2日甲斐武田の一族武田土佐国次が会津に転出、当時会津の国守であった芦名盛氏に仕え、地頭職として小池に居を構え、時代を経て武田信玄の娘武田見性院に育かれ、後大老に昇進した徳川家康の孫に当る保科正之が会津藩祖になるに至り、甲州流軍制を定め更に殿中刃傷事件等に対処するための護身武芸として武田家伝来の大東流合氣柔術を御式内(御殿術)と定め、会津藩の御留技として歴代藩主が継承し家老、重臣及び小姓等に習得せしめていた格式高い秘術であった。

武田 惣角

武田 惣角(Sokaku Takeda)

明治維新後、大東流合氣柔術の中興の祖といわれた武田惣角は会津藩筆頭家老西郷頼母(改名:保科近悳)から「すでに剣の時代は去った、会津藩御留技である合氣柔術の秘法を後世に伝えよ」と訓され、この時より剣術から大東流合氣柔術に転向し世に公開し指導普及に努めた。ときに明治31年(1898年)5月12日である。

北海道には明治43年(1910年)財部実秀が北海道警察部長に栄転の際、武田惣角に要請あって随行渡道した。これが武田惣角と当時湧別 (ゆうべつ)駅逓(堀川旅館)を経営していた堀川泰宗(堀川幸道の父)との出会いとなった。

堀川 幸道

堀川 幸道(Kodo Horikawa)

惣角はこの地、湧別を永住地に定め巡回普及指導した。門人に堀川泰宗、堀川幸道(大正3年 1914年入門)植芝盛平(合氣道開祖)、佐川幸義、松田敏美、久琢磨と奥山竜峰(八光流開祖)等多士済々がおるが、もっとも長く指導を受け、その秘術をことごとく受け継いだと言われるのが、堀川幸道(永世名人位 )である。

植芝 盛平

植芝 盛平(Ueshiba Morihei)

井上 祐助

井上 祐助(Inoue Yusuke)

飯田 宏雄

飯田 宏雄(Hiroo Iida)

武田惣角の御子息武田時宗宗家は1993年まで北海道網走市にあった。飯田宏雄は、堀川幸道直伝の門弟であり、後に幸道会後継者となった井上祐助の二人に師事し、薫陶を得ること三十有余年。当「無傳塾」は新世紀の日が昇る輝かしい2001年1月1日に飯田塾長が創設した会派である。(敬称略)

 

▼ English
History of Daito-Ryu Aiki Jujutsu

The origin of Daito-Ryu Aiki Jujutsu dates back nine hundred years to the Emperor Seiwa (reigned A.D 858 – 876) and his grandson, Shinra Saburo Minamoto No Yoshimitsu. Yoshimitsu is considered the founder of the tradition.

His family settled in the village of Takeda in Koma/Kai. (Now in Yamanashi Prefecture). There, the art passed through the Takeda clan including the famous warrior Shingen Takeda. His descendant, Kunitsugu Takeda, relocated to the Aizu district, in Fukushima and the art was passed down through the Aizu Takeda family as “Aizu Han O-Tome Waza.” It was also developed into an art instucted to high ranking persons for use as secret techniques for indoor use known as “O-Shiki Uchi”

In 1898, Sokaku Takeda received permission to teach the art openly from the chief steward of the clan, Tanomo Saigo (1830 – 1905) with the words: “the time of the sword is over.”

From this point onward, Sokaku, who had until then practiced the sword arts, began to perfect the arts of jujutsu (unarmed combat). Sokaku is considered the Chuko no So (“the founder of a renaissance “) of the art. Sokaku then embarked on a “musha shugyo” – a warrior’s pilgrimage, in which a practitioner of bujutsu travels from place to place to hone and perfect their skills through contests and the hardships of travel. This pilgrimage was to last the rest of his life.

In 1910, Sokaku went to Hokkaido, the northernmost island of Japan with Takarabe Sanehide, who was the chief of the Hokkaido police.

In Hokkaido, Sokaku stayed at the inn of Taiso Horikawa (the father of Kodo Horikawa), in Yubetsu. From this base, he traveled to many places to teach Daito-Ryu.

His students included: Taiso Horikawa, Kodo Horikawa, Morihei Ueshiba (the founder of Aikido) Yukiyoshi Sagawa, Toshimi Matsuda, Takuma Hisa and Ryuho Okuyama (founder of Hakko-Ryu Jujutsu).

Takeda had many students, but the one who spent the longest time with him, and who learned the most techniques, was Kodo Horikawa.

Sokaku’s son, Soke Tokimune Takeda, was based in Abashiri, Hokkaido until his passing in 1993.

Hiroo Iida was a direct student of Kodo Horikawa and his successor, Inoue Yusuke, for a total of thirty years and received the rank of Shihan (master instructor) in the Ryu. In 2001, he set up a new Ryu-Ha, the Muden Juku.


会津藩祖 保科正之公

保科正之(ほしな まさゆき)、生没年;慶長16年5月~寛文12年12月(1611~1672)

保科正之公の写真

保科正之公

会津藩松平家藩祖にして、徳川四代将軍家綱の輔弼役、二代将軍秀忠の御落胤であり三代将軍家光の異母弟である。幕政及び会津藩政において民心に則して善政を施した名君である。
正之公を題材とした多くの著作を有する歴史作家の中村彰彦氏は「最も尊敬できる日本人」といい、『武士の家計簿』の著者として有名な静岡文化芸術大学准教授の磯田道史氏は「彼がいなければ徳川幕府は危なかった。四代将軍家綱で終わっていたかもしれない。徳川の屋台骨を造った人」と評している。
永い歴史と伝統を受け継ぐ会津の地で培われてきた〝合気文化″=「大東流&合気道」のご先祖様は、会津藩祖の保科正之公であり、言わば〝流祖神″ともいえる。

 

【名君「足るを知る人」の業績】

保科正之公の業績は、数々の善政を尾施して会津藩を日本一安心な国にしたことである。親藩御三家に次ぐ“家門”大名家の会津藩松平家23万石(天領預地を含め実高28万石)を一代で築き、三代将軍家光の片腕となり、四代将軍家綱の後見人として幕政を陰から支えた事である。会津藩領内の90歳以上の高齢者にたして養老扶持の支給を行うなど世界最初の老齢年金制度・医療制度の創設を始めた福祉制度の父というべき人物でもある。さらに〝社倉″制度を創設、飢饉の時に糧を農民に貸し出し、返せるときに返すという農民救済制度を確立している。
明暦の大火(別名;振袖火事)では、浅草にあった幕府米蔵の御用米を放出して江戸庶民に提供し、集まった民衆を火消し来援に動員させたという快挙を成し遂げている。また火災焼失した江戸城天守閣の再建を逸早く断念し、その莫大な総工費を被災した江戸の防火都市整備など復興財源に充てたという。

【四代将軍家綱の三大改革】

幕藩体制下では、嫡子(跡継ぎ)のいない大名家は断絶し改易(取り潰し)とされた。多くの大名家を救済するため、藩主が急逝した場合に急きょ他家から養子を迎え家督を相続させる「末期養子の緩和」を図った。
儒学を根幹とする武士道の草創期に「忠臣二君に仕えず。亡き主君に従って冥土に旅立つ」という考えがあった。しかし、それは真の忠義ではないと説き、臣下が亡君の後追い自刃を諌め、「殉死の禁止」を推し進めた。戦国時代よりの武家慣習に倣い、大名家の重臣家族を江戸に人質として居住を義務付けられていた。
これを廃止して国許に返す「大名証人制度の廃止」を行った。
これらは三代将軍家光の武断政治から文治政治へと大政転換を行ったのである。そして、治世を託された武家には「合戦に備える兵法」よりも「泰平を保つ平法」が求められたのである。

最晩年の正之公は、没後は会津領猪苗代の地に埋葬され神として祀られることを望んだという。
正之公 辞世の句「万代と、いはい来にけり、会津山。たかまの原の、すみかもとめて」
泰平を保つ平法は、世の中の治安を保ち、領民の生活を安定させ、次世代の人材を育てるなど様々なことに活かされるのである。保科正之公が大成した平法の一端は大東流合気の原典とされる御式内(御敷居内)のなかに脈絡と受け継がれている。